文化創作出版からのお知らせ

文化創作出版 代表、官足法究楽部 会長の行本昌弘が、書籍や官足法のことについてお話しします。

【セミナー予定】
9月24日(金)官足法兵庫一般セミナー開催します
9月29日(水)官足法名古屋一般セミナー開催します
9月30日(木)官足法大阪一般セミナー開催します
10月27日(水)官足法名古屋一般セミナー開催します
10月28日(木)官足法大阪一般セミナー開催します
10月29日(金)官足法兵庫一般セミナー開催します
11月13日(土)官足法東京一般セミナー開催します
11月24日(水)官足法名古屋一般セミナー開催します
11月25日(木)官足法大阪一般セミナー開催します
11月26日(金)官足法兵庫一般セミナー開催します
12月16日(木)官足法大阪一般セミナー開催します
12月17日(金)官足法兵庫一般セミナー開催します
12月22日(水)官足法名古屋一般セミナー開催します
詳しくはこちらから >> https://kansokuhou.net/class/

これを知っている人はほぼ、昭和40年代から50年代にかけて大学を目指して受験勉強した世代です。これは当時東京の名門受験高の都立日比谷高校の先生をしておられた森一郎先生の著書「試験に出る英単語」(青春出版社刊)という本の略称(愛称)で当時の受験生がこぞって求めた大ベストセラーとなった参考書です。私が青春出版社の編集者として資料集めに日比谷図書館に行くと、この「シケ単」をほぼ全員が持って勉強していたのです。とても壮観で誇らしく思ったものです。私が高校の頃は旺文社の「赤尾の豆単」でした。今もそうですが本当にバカな私は、豆単は良く噛んで飲み込んだらいい、と聞いて覚えた(い?)ページを噛んでのみ込もうとしたがムリでした。さて、それはさておき私は会社命令でこの森一郎先生の「試験に出る英単語」と「試験に出る英熟語」の本のカセット版の制作担当になり、先生と親しくさせていただくことになったのです。先生は当時は奈良にお住まいで、確か大学教授をしておられました。先生はいつも気さくで「やあ!」と挨拶され興に乗ると良く話もされましたが、普段は寡黙で学者らしい方でした。
この本はたぶん1000万部は優に越す売り上げだったと思います。何故爆発的に売れたのかと言うと、タイトルも素晴らしいのですが、内容と構成が画期的だったのです。これまでの単語集はAからZまで順に並べて解説してあったのですがこの本は試験に頻繁に出てくる順番に1章「最重要単語」、2章「重要単語」、、、、と受験生が飛びつく構成だったのです。長年受験指導をしてこられた先生がこの構成と名解説を産み出されたのです。
私が文化創作出版を立ち上げてからも親しくさせていただいて、奈良に伺った時はちょうど桜の絶好の時期で車で吉野の桜を満喫させて頂きました。今でも目を閉じるとニコッと笑って「やあ!」と言う先生が直ぐに思い出されます。
下の写真が森先生からのハガキです。


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朝日新聞に毎月第2木曜日連載の瀬戸内寂聴先生の「残された日々」の今月は、亡くなった芥川賞作家の高橋三千綱さんについての思い出を書いておられました。実は私も高橋三千綱さんとは浅からぬご縁で「九月の空」で芥川賞を受賞された直後にお目にかかっているのです。それは彼のお父上である、やはり作家の高野三郎先生と私が知り合いだったことで「僕の息子が芥川賞をとったので本を出してやって欲しい」と言われたのです。 作家として超売れっ子となった高橋さんは「俺は作家だよ。エッセイなんか書く積もりはないよ 」と、にべもありません。しかし私は怯みません。東京八幡山駅の近くにあった大宅文庫(大宅壮一さんが遺されたあらゆる雑誌、週刊誌、新聞などが置いてあって編集者の聖地とも言える場所)へ通い詰めて三千綱さんの記事という記事を女性週刊誌から一般の雑誌、新聞に至るまで集めに集めて、おおざっぱなコンテンツとプロットを持って新宿にあった仕事場に行きました。「こんなんで本になるの?」「大丈夫です。面白いですよ」などという会話の後、私は内心10年に一度のタイトルと自負していた「こんな女と暮らしてみたい」を他のいくつかのタイトル候補とともに見せると、無関心を装ったいつものぶっきらぼうな物言いで「こんなタイトルで売れるの?」「それにしても、世の中ブスばっかりだよね」などと照れ隠しでおっしゃる。寂聴先生も冒頭のエッセイで「当時人気絶頂の石原慎太郎さんのタレント性を具えていて、甘い美貌は慎太郎さん以上にチャーミングだと、若い女性の読者がついていた。」と述べておられます。私も本当にそう思って女性は必ずこのタイトルに惹かれて買うに違いないと確信に近いものを持っていたのでそのまま押しきって出版にこぎつけました。案の定この本はたちまちベストセラー入りし、50万部ほども売れていったのです。本にとってのタイトルは最重要のアイテムだと思い知らされたのです。後にこのタイトルを使って天下の角川書店が「続-こんな女と暮らしてみたい」という続編ま出したのですから。さて、高橋さんはなぜかブルドッグが好きで( 私は嫌いだった)、そのブルが私が行く度に股間に上を向いた鼻を擦り付けて退こうとしません。蹴飛ばすわけにもいかず困っていても彼はニヤニヤしているだけだったのです。それはさておき、終生酒を愛し、ゴルフを愛し、最後の無頼派作家(野武士のようだった)と言えるのではないか、と冥福を祈りながら考えています。

「戦いすんで日が暮れて 」で直木賞を受賞された佐藤愛子先生。以後、数えきれないほど多くの名小説やエッセイを書き続け、遂に98才にしてなお最新作「九十八歳。戦いやまず日は暮れず」を最近上梓され、これが又、「九十歳。何がめでたい」のミリオンセラーに続いてまたまた大きなベストセラーになっておられる由、あまりの凄さに、形容する言葉がありません。この佐藤先生とも前回(7回)ご紹介した鶴田先生がとても親しくて「東京のお母さん」と言っておられるほどです。
ある時「佐藤先生が腰が悪くて困っておられるので、行って足揉みをしてあげて下さい」と私に依頼されるので、ご自宅まで伺って足揉みをさせていただいたことがあります。痛みをとることについては 、私が普及と指導に関わっている官足法は、いささか効果もあり自信もあったので、一時間ほど足を揉んだ後「どうですか。楽になりませんか?」と聞くと「私の腰痛は足揉みでは、、、」と、言われます。私は佐藤先生が長年霊障に悩ませられていたことも知っていたのでそういうことか、と納得してしまい、話の継穂が無くなってつい庭を見て「良い庭ですね」と月並みのことを言ってしまったのです。佐藤先生は即座に「ここは私の戦場です」とキッパリ言われました。先生が嫌がるつまらない事をいってしまった私は、後悔と同時にこの言葉に本当感服してしまいました。庭を愛でるどころか毎日庭と対峙して、物を書いて生きるという修羅場をくぐり抜けて今日の確固たる作家の地位を築いておられるのだということに改めて気が付いたのです。

この度登場するのは鶴田光敏先生です。この方とはほぼ毎月末水曜日の名古屋官足法セミナー後にお目にかかって30年近くになります。私(文化創作出版)のところから何冊も出版されています。お付き合いも長いのでその間の特筆すべきエピソードも多くありますのでおいおいにお話します。
さて、その第1彈は司馬遼太郎さんです。
「龍馬がいく」「坂ノ上の雲」「梟の城」等々数多くの歴史小説の名作や 紀行文の傑作「街道をゆく」等々説明の要らない戦後を代表する大作家です。1996年2月に大動脈瘤破裂で亡くなりました。その時輸血のため大阪の病院まで駆けつけたのが鶴田光敏先生です。司馬遼太郎さんが最後まで主治医として信頼してお付き合いをされた鶴田先生は、大の文学好きの、人付き合いの達人ともいえる人で、作家のみならず多くの著名人と親しくお付き合いされてきました。
この司馬遼太郎さんとも新潮社の編集長に紹介されて お目にかかることになります。
医者嫌い、病院嫌いの司馬さんは鶴田先生にに開口一番こう聞きました「先生、あなたの病院ははやっていますか?」「ええ、お陰さまで。私は治すのが下手なもんで患者さんがいつまでも来られるし、その上に新しい患者さんが見えるもんで何時も繁盛です」と答えて、とても気に入られ、それ以来親しいお付き合いが始まるのです。絶筆となった「街道をゆく」第43巻(朝日新聞出版)に鶴田先生が出てきます。その抜粋を以下に紹介させていただきます。
『桶狭間までの行路は、マイクロバスをつかった。すでにこの上ない案内人を得ている。
鶴田光敏氏である。この人は一九五四年十二月十七日うまれで、すでに四十一ながら、色白で少年のように若々しい。私はこの人の人柄については、熟知しているつもりでいる。慈悲ぶかいという高度のことばをつかっていいほどに心優しくそれに親切がいつも行動になっている。さらには物事への理解力が的確なのである。』
最後まで無駄のない言葉使いで読む者を文章の虜にしてしまう司馬文学。私も大好きでした。亡くなったのは鶴田先生に合わせていただく約束の日の一週間前でした。



文化創作出版の最大のベストセラーは「足の汚れが万病の原因だった」という本で、今年(2021年)8月6日で35年周年を迎えます。8月現在、105刷という重版を重ね35年の間支持され広がり続けて200万部を越えるロングベストセラーとなっています。官先生の足の健康法の頭取りをして「官足法」というこの健康法は、ウォークマットⅡ、官足法赤棒などのグッズが通信販売でひとり歩きをするほど売れて昨今大評判になっています。私が立ち会ったこれらのグッズの誕生秘話もあるので別の機会にお話します。
著者の官有謀先生は台湾人。占領下にあった台湾で日本兵として徴用され、終戦を日本で迎えます。その時肺浸潤という結核関連の病気に悩んでおられ、何とか健康になって再び日本に行きたい、と考えて西洋医学、漢方などあれこれ 悪戦苦闘の末辿り着いたのが、自らが創始者となった官足法だったのです。学校教師を続ける一方、独学で習得したバイオリンの先生としても台湾では有名で、音楽教師を指導する講演会を台湾中で続ける傍ら台北にある自宅の地下室には何十人も入れるバイオリン教室を開いておられました。その間も約30年間自らの足を揉み続けて片肺飛行ながらすっかり元気になった官先生は自らの健康法を普及指導するために教師も辞し、バイオリン教室も止めて再来日されたのです。健康器具販売の会社の社長と社員を伴って私の会社に現れた官先生は自信満々で開口一番私に「僕の本を出すか出さないか今日中に決めて下さい。出すなら30万部印刷して下さい。僕の本はストップが効きまませんから」私はさすがに唖然として、白髪三千畳の国の人は大言壮語して度肝を抜こうというのか、と思いながら返事もしないでいると、「靴下を脱いで」「百聞は一見に如かず」と言って私の足を揉み出されます。それまで体験したことの無い痛みに 「もう、わ分かりました」「まだ、分かっていません」と、何度か繰り返しながら反射区(臓器)の説明と病気の原因など驚くほどの知識を披露されたのです。3時間ほどの間に私の身体が驚くほど軽快になり、経験したことの無い爽快感を覚えたのです。その時私は、直ぐには出版出来ないこと、30万部を刷ることも無理だということを伝えて、出版の約束をしたのです。
さて、出版を契機に本が思わぬ大反響を巻き起こし、テレビ出演を始め、私も全国を先生と講演会で飛び回る日々が始まりました。先生が亡くなってからはいつの間にか私自身が官足法の先生となって数え切れないほど多くの方々に官足法を伝えて今日に至ります。官先生と「この本と棒を日本中の人が薬箱の中身を捨てて代わりに置いてくれるまで頑張ろう」と約束して、もう35年になるのかと感慨もひとしおです。



随分前に「吉田茂人間秘話」(文化創作出版)という本を出版しました。講和条約、戦後賠償、飢えによる国民の命と生活の立て直しに至るまで八面六臂の存在感を示した不世出の総理大臣でした。この本の著者は、細川隆一郎先生(毎日新聞出身の政治評論家で、文化創作出版の顧問としてお世話になりました)と吉田茂の最後の秘書であった依岡顕知先生との共著です。さて、第二次世界対戦という世界の列強との戦いに無謀にも挑んで1945年に敗戦国となった日本という国。この徹底的ダメージを受けた国が戦後、世界中を驚かせる復興を遂げ、20年後(1964)には東京オリンピックを開催することになるのです。この戦後日本の復興と繁栄の礎を築いたのが吉田茂という希有の総理大臣でした。。講和条約、戦後賠償、飢えによる国民の命と生活の立て直しに至るまで八面六臂の存在感を示した不世出の総理大臣でした。
この人は、当時のイギリスの首相のチャーチルと並び称されるウイットとユーモアに富んでいて、逸話が数多く残っています。
戦後賠償で金よこせ、とやって来たフィリピンの大統領を前にして「今、ちょっと財務の担当者が計算に手間取っている」というのです。「何に手間取っているのか!」と大統領。「いや、毎年お宅で発生する台風で日本は多大の損害を被っている。それを計算中だ」と言ったとか言わないとか。
またこの人は、地元(高知)に一度も選挙でも帰ったことがなく地元の秘書に任せっきりで連続当選して来た。最後の選挙で「先生帰らないと今度は落選します」と言われて重い腰をあげました。寒い時の解散総選挙だったので、オーバーコートを着て演説を始めるとヤジが飛びます。「オーバーを羽織ったまま演説とは失礼じゃないか」すかさず吉田さん「何を言うか、これが本当の街頭演説だ!」「あんたは東京に三人も妾を持って不届き者!」これにも「バカヤロー(と言ったかどうか)三人じゃない五人だ 」と返した。
こうしたエピソードに事欠かない人だったようで、丘の上でパイプを燻らせている時、下からムシロバタを掲げたデモ隊が「米寄越せ、飢え死にさせる気か」と上がって来た。吉田さんは悠然として「飢え死にするどころかムシロバタを掲げて元気じゃないか」とこんな具合だったのです。

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もう一つ青春出版社時代の話。今度は本物の女優の富士真奈美さん。今はテレビで見かけることがなくなってしまいましたが、随筆家としても俳人としても良い作品を書いたり詠んだりしておられます。当時は大人気の売れっ子女優さんで、どうしても本をを出したくて何度かお目にかかっていました。彼女を一躍有名にしたのは「細腕繁盛記」というテレビドラマで新珠三千代さん演じる老舗旅館の若女将をいじめて、イビってイビり倒す、という役柄で好演して人気となったのです。
その富士真奈美さんと六本木のクローバーという喫茶店で打ち合わせや原稿の受け取りなどでよくお会いしていました。
ある日、憤懣やる方ないといった風情でプリプリでやって来られました。「どうしたのですか?」と聞くと「今、そこの交差点を渡っていたらすれ違いざまに『もう、本当に憎たらしい‼️』って怒鳴り付けるのよ❗」と言います。
それを聞いて私は「それこそ役者冥利につきるでは無いですか」と申し上げたのです。結局本にはならなかったのですが、いただいた原稿には、詰まったトイレをなんのためらいもなく開通してくれた彼として後に結婚された脚本家の林秀彦さんのことを書いておられました。


  「ホスピス病棟に生きる」 という本を今の私の会社(文化創作出版)で出した時の話。著者の今井淑子先生は当時東京女子医大の看看短大の講師でした。末期にある患者の最期の日々と向き合い、寄り添うという仕事、ホスピスを通して得た人間模様を書いた貴重な本でした。(1997年刊、絶版)
この本の出版記念会の時、思いもかけないことが起こったのです「新樹の会」という乳ガン患者の会の代表幹事をされていた今井先生に、会長の俵萠子さんです。と俵萠子先生を紹介されたのです。紹介されるまでもなく私は青春出版時代に彼女の「彼と向かい合って生きる方法」という本を編集、出版していたのです。偶然にも久しぶりの再会に話も弾んで「私は今、赤城の山の中で陶器焼いているのよ。一度是非、遊びにいらっしゃい。美味しい上等のお酒もたっぷりあるから」「陶芸家になられたのですか」「そうよ、作品を展示して皆さんに見てもらっているのよ」私がお酒好きだと知ってのお誘いでした。とうとう赤城に行けなかったのですが、評論家として大活躍されただけでなく、政治にも大きな関心があり、東京都知事選挙にも立候補されたことがあって、確か六本木で選挙対策事務所を華々しく開きました。私はバラの花束を持って激励に行きました。
真ん中上部にポスターが飾られ、その中央に映画監督の大島渚さん(対策本部長?)が座っていました。
私は今もそうですが、思ったことをすぐ口に出してしまう癖があって、「先生、この写真は若くて綺麗で女優、、ちょっとギャップが、、」と言いかけて慌てて口を覆ったのですが、大島さんが聞いていて「君ははっきりものを言う。気にいった。」と言って助け船を出してくれました。そんな事もあったのです。







これも私がまだ20代の中ごろの話です。
恐らくは身を切られるような自身の修羅をくぐり抜けて、それらを小説に昇華させ確固たる作家の地位を築いた瀬戸内晴美(寂聴)先生にエッセイの担当編集者の一人として原稿をいただくために何度かお会いするの機会がありました。確か小石川にあるマンションの階段を上った2階に先生の仕事場があって、いつでも優しい笑顔で上機嫌で迎えて下さって「あなたは若いんだから私の本を読んで勉強しなさい」と、出来立ての本のサイン本をいただきました。生々しい男女の愛憎を書いた小説に、当時は先生の作品に批判的な文芸評論家もいましたが、私にとっては大感激で、今では家宝とも言えます。
上梓されたエッセイは「ひとりでも生きられる」というタイトルで青春出版社から出版され数十万部というベストセラーとなり、大評判になりました。
私はその時頂いた本の前書きに、何とも言えない衝撃を受けて今でも忘れられない言葉があります。それは「より多く傷ついた魂にこそ至福あれ」と書いてありました。作家としての感性の研ぎ澄まされたこの言葉を読んで、私は編集者という仕事は、誰より一番最初の読者として作品に接することだと喜びにしばし浸ったのです。今では月一回の朝日新聞の連載を楽しみにしている毎日です。


このホームページでは、現在、私の第二のライフワークである官足法という名の健康情報や、過去の出版物の中から皆さんにとって有益だろうと思われる知識やエピソードなどをお届けできる場所として提供していきたいと思っています。
かけがえの無い健康情報と、出版を通して知り得た数多くの出版知識人達のエピソードの語り部として、皆さんのお役にたてればと言う思いでこのブログを始めました。どうぞ今後とも宜しくお願いいたします。
①    人間の年齢
かつて「常識の嘘」という大ベストセラーとなった本があり、その著者の医事評論家で有名だった石垣純二先生にお目にかかった時の話。
当時青春出版社の編集者だった私は新刊で「精神年齢入門」(清原健司)という本の推薦文をもらおうということになりました。
今でもそうですが、ベストセラー作家や権威のある人の推薦文は新刊本には必須のアイテムです。
「君、人間の年齢には3つあって、一つが暦の上の年齢、もう一つが肉体年齢、そして三つめが大事な心の年齢、精神年齢なんだ。」と、おっしゃって推薦文の原稿を渡されたのです。
皆さんは自分の年齢が三つあることをご存知でしたか?私はそれ以来一番あてにならない暦の上の年齢は置いておいて、肉体年齢と精神年齢を大事にして生きて行こうと常に考えています。

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