文化創作出版からのお知らせ

文化創作出版 代表、官足法究楽部 会長の行本昌弘が、書籍や官足法のことについてお話しします。

【セミナー予定】
11月13日(土)官足法東京一般セミナー
11月24日(水)官足法名古屋一般セミナー
11月25日(木)官足法大阪一般セミナー
11月26日(金)官足法兵庫一般セミナー
詳しくはこちらから >> https://kansokuhou.net/class/

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これがわかる方は相当社会のアンテナの広い人だと思います。これは2019年に参議院議員選挙が行われた時、87歳でその選挙に立候補して話題になった野末陳平先生の選挙事務所に陣中見舞に伺った私が足もみを施しでいるところです。この野末陳平先生とは長い間のお付き合いをさせていただいています。「頭のいい銀行利用法」(1977年)というタイトルの本と続けて翌年出版された「頭のいい税金の本」(ともに青春出版社刊)でどちらも100万部を越えるミリオンセラーとなって一世を風靡し社会現象となったのです。この本の担当編集者として私と先生とのお付き合いが始まったという訳です。なぜこの2冊の本が売れに売れて社会現象になったのか。「銀行利用法」はタイトルもさることながら、当時は郵貯をはじめ各銀行間で利息に差があって、特に郵貯の定期は複利で増えるので5年も経つと他行とは大きく違った金額となって増えていったのです。そこに目をつけて「何処にどうお金を預けるのが得か」というテーマで出版したのがこの本なのです。「頭のいい」のは実は著者だったのです。もうひとつの「税金の本」は目から鱗の本でした。今では知らない人はいませんが、当時は誰も確定申告をして還付金が返って来るなどと考える人はいなくて、当時の主婦はサラリーマンの夫が持って帰るお金が唯一でその中から内緒でへそくりをつくるのが関の山、という時代に特に医療費などに思わね出費がかかって困ったという時に、誰でも翌年税務署に行って手続きをすれば、大抵2~3万円くらいのお金(税金)が帰ってくるよ、という本だったのです。出版された翌年から税務署に大 勢の主婦が並んで、税務署がてんやわんや、という事態になりました。
因みに先月末の総選挙で、立憲民主党から東京1区で立候補して比例区で当選されて同党の副議長をされることになった海江田万里さんは、この時は野末先生の秘書でした。
お二人ともその後は政治家として税金党を立ち上げたり、政治家として長年活躍されて来られました。ベストセラーというのはその時代のニーズに応えるタイミング、誰もが思わず手を出して買いたくたくなるタイトル、そして言わずもがな内容が斬新であるという三拍子揃っていることが重要である、とつくづく考えさせられた出版でした。

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これは、かの有名なベストセラー作家の佐藤愛子先生の小説で、亡くなった少女があの世から電話を掛けて来るという、実際に起きた驚くべき事実を基にした小説なのです。小説では高林先生という医師が医学部受験の高校生に向けて講演会をしてそれを聞いて感激した女子高生と、先生が携帯電話でやり取りをするほどに親しくなりました。その少女が見事東京の大学の医学部に受かったのです。そこで東京に行く前に一度会おうということにり、少女は憧れの先生に会えることをとても喜んでいたのです。ところが約束のその日、その場所に時間が来ても彼女はいっこうに現れません。実はちょうどその日に少女は交通事故で死んでしまっていたのです。
    ところがある日、死んだはずの少女から電話がかかってくるのです。、、、、      あらすじはこのくらいにしてとても興味深い小説ですから一読をおすすめします。新潮社から文庫本になって出ています。
    この本のタイトルが決定する経緯についてちょっとお話ししておきましょう。小説新潮に連載されたものを単行本にして出版したのですが連載時には「冥界からの伝言」というタイトルでしたが単行本になったら「冥界からの電話」となっています。このことを佐藤先生が私に「行本さん、あなたは編集者だからお分かりになるでしょう。作家にとってタイトルは命なんですよ。その、タイトルをいまさら変えたいと言って3人の編集者がやって来て説得ですよ。どうなんでしょうねえ」と言われます。私は「タイトルを先に決めて、それに添って書かれる訳ですから作家にとっては理不尽ですよね。でも、出版社としては伝言より電話とした方が読者に対してよりインパクトがあって売れると判断したのではないですか」というようなやり取りをしたことを思い出します。      さて、ここまで書いてきて、ネタバレです。実は高林先生というのは佐藤先生のエッセイにはたびたび登場する鶴田光敏先生のことで、医学博士である先生に実際に起こった出来事なのです。佐藤先生の活達な筆捌きで「あの世の仕組みはどうなっているんだろう」と興味深い展開となっています。
冥界(あの世)と現実世界とは一線を越えてはならない深い不文律があるのだ、と思い知らされる小説です。

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先日知り合いの方が、ソニーの株を持っていて「一時400円台まで下がっていた株が 13000円台になった!」と喜んでおられた。
私はかつてこのソニーの創業者の一人である井深大先生(幼児教育の専門家としても著名で多くの著書がある)にお目にかかる機会があったのです。
渋谷のマンションの4階にある私の会社に80歳前後のお年寄りが何度かお見えになって、その度に官先生の「足の汚れが万病の原因だった」の本と棒を10冊と10本づつお買いになります。ある日「官先生の講演会があれば、ぜひお伺いしたいのですが、、、」と言われました。「それならここに住所と電話、お名前を書いておいて下さい」と女性社員。隣の部屋で一連のやり取りを聞いていた私は、どうも普通の人ではないと思い、メモ書きを見ると、なんとソニー創業者の井深先生だったのです。慌てて4階から下を見ると大きな車の脇に直立不動の運転手さんがいました。上から「オーイ」と言うわけにもいかないので帰られた頃をみはからって電話をかけました。「いつも本と棒を有り難うございます。講演会をお待ちになら無くても私が官先生をお連れします」と言うと「私も私の仲間も年をとってだんだん身体が弱って来たので官先生の本と棒を渡しているのです。私のためだけでは申し訳ないです。それなら会社の幹部を集めますから講演会をお願いします」ということになって五反田にあったソニーの会議室で講演会が開かれました。さすが天下のソニー、幹部だけで60人の大盛況の講演会となりました。終わって食事をご馳走になったとき井深先生が私に「行本さん、あなたは大変良い本を出されました。私ども技術屋はこれからは哲学を持たないと仕事が行き詰まってしまいます。この本にはそれがあります。」と言われました。私はとても嬉しくて今でも忘れることができません。今のソニーの業績回復のバックぼーンにはこうした創業者の確固たる精神が脈々と流れているのだ、と私は株主で はないけれど喜んでいます。言うまでもなくその後官先生と井深先生は足揉みを通して親しくお付き合いをされたのです。



これを知っている人はほぼ、昭和40年代から50年代にかけて大学を目指して受験勉強した世代です。これは当時東京の名門受験高の都立日比谷高校の先生をしておられた森一郎先生の著書「試験に出る英単語」(青春出版社刊)という本の略称(愛称)で当時の受験生がこぞって求めた大ベストセラーとなった参考書です。私が青春出版社の編集者として資料集めに日比谷図書館に行くと、この「シケ単」をほぼ全員が持って勉強していたのです。とても壮観で誇らしく思ったものです。私が高校の頃は旺文社の「赤尾の豆単」でした。今もそうですが本当にバカな私は、豆単は良く噛んで飲み込んだらいい、と聞いて覚えた(い?)ページを噛んでのみ込もうとしたがムリでした。さて、それはさておき私は会社命令でこの森一郎先生の「試験に出る英単語」と「試験に出る英熟語」の本のカセット版の制作担当になり、先生と親しくさせていただくことになったのです。先生は当時は奈良にお住まいで、確か大学教授をしておられました。先生はいつも気さくで「やあ!」と挨拶され興に乗ると良く話もされましたが、普段は寡黙で学者らしい方でした。
この本はたぶん1000万部は優に越す売り上げだったと思います。何故爆発的に売れたのかと言うと、タイトルも素晴らしいのですが、内容と構成が画期的だったのです。これまでの単語集はAからZまで順に並べて解説してあったのですがこの本は試験に頻繁に出てくる順番に1章「最重要単語」、2章「重要単語」、、、、と受験生が飛びつく構成だったのです。長年受験指導をしてこられた先生がこの構成と名解説を産み出されたのです。
私が文化創作出版を立ち上げてからも親しくさせていただいて、奈良に伺った時はちょうど桜の絶好の時期で車で吉野の桜を満喫させて頂きました。今でも目を閉じるとニコッと笑って「やあ!」と言う先生が直ぐに思い出されます。
下の写真が森先生からのハガキです。


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朝日新聞に毎月第2木曜日連載の瀬戸内寂聴先生の「残された日々」の今月は、亡くなった芥川賞作家の高橋三千綱さんについての思い出を書いておられました。実は私も高橋三千綱さんとは浅からぬご縁で「九月の空」で芥川賞を受賞された直後にお目にかかっているのです。それは彼のお父上である、やはり作家の高野三郎先生と私が知り合いだったことで「僕の息子が芥川賞をとったので本を出してやって欲しい」と言われたのです。 作家として超売れっ子となった高橋さんは「俺は作家だよ。エッセイなんか書く積もりはないよ 」と、にべもありません。しかし私は怯みません。東京八幡山駅の近くにあった大宅文庫(大宅壮一さんが遺されたあらゆる雑誌、週刊誌、新聞などが置いてあって編集者の聖地とも言える場所)へ通い詰めて三千綱さんの記事という記事を女性週刊誌から一般の雑誌、新聞に至るまで集めに集めて、おおざっぱなコンテンツとプロットを持って新宿にあった仕事場に行きました。「こんなんで本になるの?」「大丈夫です。面白いですよ」などという会話の後、私は内心10年に一度のタイトルと自負していた「こんな女と暮らしてみたい」を他のいくつかのタイトル候補とともに見せると、無関心を装ったいつものぶっきらぼうな物言いで「こんなタイトルで売れるの?」「それにしても、世の中ブスばっかりだよね」などと照れ隠しでおっしゃる。寂聴先生も冒頭のエッセイで「当時人気絶頂の石原慎太郎さんのタレント性を具えていて、甘い美貌は慎太郎さん以上にチャーミングだと、若い女性の読者がついていた。」と述べておられます。私も本当にそう思って女性は必ずこのタイトルに惹かれて買うに違いないと確信に近いものを持っていたのでそのまま押しきって出版にこぎつけました。案の定この本はたちまちベストセラー入りし、50万部ほども売れていったのです。本にとってのタイトルは最重要のアイテムだと思い知らされたのです。後にこのタイトルを使って天下の角川書店が「続-こんな女と暮らしてみたい」という続編ま出したのですから。さて、高橋さんはなぜかブルドッグが好きで( 私は嫌いだった)、そのブルが私が行く度に股間に上を向いた鼻を擦り付けて退こうとしません。蹴飛ばすわけにもいかず困っていても彼はニヤニヤしているだけだったのです。それはさておき、終生酒を愛し、ゴルフを愛し、最後の無頼派作家(野武士のようだった)と言えるのではないか、と冥福を祈りながら考えています。

「戦いすんで日が暮れて 」で直木賞を受賞された佐藤愛子先生。以後、数えきれないほど多くの名小説やエッセイを書き続け、遂に98才にしてなお最新作「九十八歳。戦いやまず日は暮れず」を最近上梓され、これが又、「九十歳。何がめでたい」のミリオンセラーに続いてまたまた大きなベストセラーになっておられる由、あまりの凄さに、形容する言葉がありません。この佐藤先生とも前回(7回)ご紹介した鶴田先生がとても親しくて「東京のお母さん」と言っておられるほどです。
ある時「佐藤先生が腰が悪くて困っておられるので、行って足揉みをしてあげて下さい」と私に依頼されるので、ご自宅まで伺って足揉みをさせていただいたことがあります。痛みをとることについては 、私が普及と指導に関わっている官足法は、いささか効果もあり自信もあったので、一時間ほど足を揉んだ後「どうですか。楽になりませんか?」と聞くと「私の腰痛は足揉みでは、、、」と、言われます。私は佐藤先生が長年霊障に悩ませられていたことも知っていたのでそういうことか、と納得してしまい、話の継穂が無くなってつい庭を見て「良い庭ですね」と月並みのことを言ってしまったのです。佐藤先生は即座に「ここは私の戦場です」とキッパリ言われました。先生が嫌がるつまらない事をいってしまった私は、後悔と同時にこの言葉に本当感服してしまいました。庭を愛でるどころか毎日庭と対峙して、物を書いて生きるという修羅場をくぐり抜けて今日の確固たる作家の地位を築いておられるのだということに改めて気が付いたのです。

この度登場するのは鶴田光敏先生です。この方とはほぼ毎月末水曜日の名古屋官足法セミナー後にお目にかかって30年近くになります。私(文化創作出版)のところから何冊も出版されています。お付き合いも長いのでその間の特筆すべきエピソードも多くありますのでおいおいにお話します。
さて、その第1彈は司馬遼太郎さんです。
「龍馬がいく」「坂ノ上の雲」「梟の城」等々数多くの歴史小説の名作や 紀行文の傑作「街道をゆく」等々説明の要らない戦後を代表する大作家です。1996年2月に大動脈瘤破裂で亡くなりました。その時輸血のため大阪の病院まで駆けつけたのが鶴田光敏先生です。司馬遼太郎さんが最後まで主治医として信頼してお付き合いをされた鶴田先生は、大の文学好きの、人付き合いの達人ともいえる人で、作家のみならず多くの著名人と親しくお付き合いされてきました。
この司馬遼太郎さんとも新潮社の編集長に紹介されて お目にかかることになります。
医者嫌い、病院嫌いの司馬さんは鶴田先生にに開口一番こう聞きました「先生、あなたの病院ははやっていますか?」「ええ、お陰さまで。私は治すのが下手なもんで患者さんがいつまでも来られるし、その上に新しい患者さんが見えるもんで何時も繁盛です」と答えて、とても気に入られ、それ以来親しいお付き合いが始まるのです。絶筆となった「街道をゆく」第43巻(朝日新聞出版)に鶴田先生が出てきます。その抜粋を以下に紹介させていただきます。
『桶狭間までの行路は、マイクロバスをつかった。すでにこの上ない案内人を得ている。
鶴田光敏氏である。この人は一九五四年十二月十七日うまれで、すでに四十一ながら、色白で少年のように若々しい。私はこの人の人柄については、熟知しているつもりでいる。慈悲ぶかいという高度のことばをつかっていいほどに心優しくそれに親切がいつも行動になっている。さらには物事への理解力が的確なのである。』
最後まで無駄のない言葉使いで読む者を文章の虜にしてしまう司馬文学。私も大好きでした。亡くなったのは鶴田先生に合わせていただく約束の日の一週間前でした。



文化創作出版の最大のベストセラーは「足の汚れが万病の原因だった」という本で、今年(2021年)8月6日で35年周年を迎えます。8月現在、105刷という重版を重ね35年の間支持され広がり続けて200万部を越えるロングベストセラーとなっています。官先生の足の健康法の頭取りをして「官足法」というこの健康法は、ウォークマットⅡ、官足法赤棒などのグッズが通信販売でひとり歩きをするほど売れて昨今大評判になっています。私が立ち会ったこれらのグッズの誕生秘話もあるので別の機会にお話します。
著者の官有謀先生は台湾人。占領下にあった台湾で日本兵として徴用され、終戦を日本で迎えます。その時肺浸潤という結核関連の病気に悩んでおられ、何とか健康になって再び日本に行きたい、と考えて西洋医学、漢方などあれこれ 悪戦苦闘の末辿り着いたのが、自らが創始者となった官足法だったのです。学校教師を続ける一方、独学で習得したバイオリンの先生としても台湾では有名で、音楽教師を指導する講演会を台湾中で続ける傍ら台北にある自宅の地下室には何十人も入れるバイオリン教室を開いておられました。その間も約30年間自らの足を揉み続けて片肺飛行ながらすっかり元気になった官先生は自らの健康法を普及指導するために教師も辞し、バイオリン教室も止めて再来日されたのです。健康器具販売の会社の社長と社員を伴って私の会社に現れた官先生は自信満々で開口一番私に「僕の本を出すか出さないか今日中に決めて下さい。出すなら30万部印刷して下さい。僕の本はストップが効きまませんから」私はさすがに唖然として、白髪三千畳の国の人は大言壮語して度肝を抜こうというのか、と思いながら返事もしないでいると、「靴下を脱いで」「百聞は一見に如かず」と言って私の足を揉み出されます。それまで体験したことの無い痛みに 「もう、わ分かりました」「まだ、分かっていません」と、何度か繰り返しながら反射区(臓器)の説明と病気の原因など驚くほどの知識を披露されたのです。3時間ほどの間に私の身体が驚くほど軽快になり、経験したことの無い爽快感を覚えたのです。その時私は、直ぐには出版出来ないこと、30万部を刷ることも無理だということを伝えて、出版の約束をしたのです。
さて、出版を契機に本が思わぬ大反響を巻き起こし、テレビ出演を始め、私も全国を先生と講演会で飛び回る日々が始まりました。先生が亡くなってからはいつの間にか私自身が官足法の先生となって数え切れないほど多くの方々に官足法を伝えて今日に至ります。官先生と「この本と棒を日本中の人が薬箱の中身を捨てて代わりに置いてくれるまで頑張ろう」と約束して、もう35年になるのかと感慨もひとしおです。



随分前に「吉田茂人間秘話」(文化創作出版)という本を出版しました。講和条約、戦後賠償、飢えによる国民の命と生活の立て直しに至るまで八面六臂の存在感を示した不世出の総理大臣でした。この本の著者は、細川隆一郎先生(毎日新聞出身の政治評論家で、文化創作出版の顧問としてお世話になりました)と吉田茂の最後の秘書であった依岡顕知先生との共著です。さて、第二次世界対戦という世界の列強との戦いに無謀にも挑んで1945年に敗戦国となった日本という国。この徹底的ダメージを受けた国が戦後、世界中を驚かせる復興を遂げ、20年後(1964)には東京オリンピックを開催することになるのです。この戦後日本の復興と繁栄の礎を築いたのが吉田茂という希有の総理大臣でした。。講和条約、戦後賠償、飢えによる国民の命と生活の立て直しに至るまで八面六臂の存在感を示した不世出の総理大臣でした。
この人は、当時のイギリスの首相のチャーチルと並び称されるウイットとユーモアに富んでいて、逸話が数多く残っています。
戦後賠償で金よこせ、とやって来たフィリピンの大統領を前にして「今、ちょっと財務の担当者が計算に手間取っている」というのです。「何に手間取っているのか!」と大統領。「いや、毎年お宅で発生する台風で日本は多大の損害を被っている。それを計算中だ」と言ったとか言わないとか。
またこの人は、地元(高知)に一度も選挙でも帰ったことがなく地元の秘書に任せっきりで連続当選して来た。最後の選挙で「先生帰らないと今度は落選します」と言われて重い腰をあげました。寒い時の解散総選挙だったので、オーバーコートを着て演説を始めるとヤジが飛びます。「オーバーを羽織ったまま演説とは失礼じゃないか」すかさず吉田さん「何を言うか、これが本当の街頭演説だ!」「あんたは東京に三人も妾を持って不届き者!」これにも「バカヤロー(と言ったかどうか)三人じゃない五人だ 」と返した。
こうしたエピソードに事欠かない人だったようで、丘の上でパイプを燻らせている時、下からムシロバタを掲げたデモ隊が「米寄越せ、飢え死にさせる気か」と上がって来た。吉田さんは悠然として「飢え死にするどころかムシロバタを掲げて元気じゃないか」とこんな具合だったのです。

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もう一つ青春出版社時代の話。今度は本物の女優の富士真奈美さん。今はテレビで見かけることがなくなってしまいましたが、随筆家としても俳人としても良い作品を書いたり詠んだりしておられます。当時は大人気の売れっ子女優さんで、どうしても本をを出したくて何度かお目にかかっていました。彼女を一躍有名にしたのは「細腕繁盛記」というテレビドラマで新珠三千代さん演じる老舗旅館の若女将をいじめて、イビってイビり倒す、という役柄で好演して人気となったのです。
その富士真奈美さんと六本木のクローバーという喫茶店で打ち合わせや原稿の受け取りなどでよくお会いしていました。
ある日、憤懣やる方ないといった風情でプリプリでやって来られました。「どうしたのですか?」と聞くと「今、そこの交差点を渡っていたらすれ違いざまに『もう、本当に憎たらしい‼️』って怒鳴り付けるのよ❗」と言います。
それを聞いて私は「それこそ役者冥利につきるでは無いですか」と申し上げたのです。結局本にはならなかったのですが、いただいた原稿には、詰まったトイレをなんのためらいもなく開通してくれた彼として後に結婚された脚本家の林秀彦さんのことを書いておられました。

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